変えることが難しい文化という代物

社会をよりよくするためには何かしらの変革が必要なのは誰しも異論のないところだろう。

だけど、実際には変革をなしとけるには多大なエネルギーが必要だ。

たとえ、それが会社とかサークルといった小さな組織だったとしても、
そう簡単に変革を起こすことはできない。


これがわかるようになったのは実は35過ぎてからだったのだけど、
それまでの自分は社会というものが何もみえていなかったんだなあと痛感する。
実は今だって大して見えているとはいえないかもしれない。



話を戻す。

社会を変えることがどうしてそこまで難しいのか?

それはズバリ、社会は人間が形成した文化というものと融合していて、どうしても切り離すことができないからだと思う。

文化っていうと、いい印象のものが多いと感じるかもしれないけれど、文化には悪い側面がたくさんあると思う。

ピンとこない人にわかるように説明するには、実例をあげるのが簡単だ。


食べ物を喉に詰まらせて死ぬ人がいる。
一時期話題にあがったのは、こんにゃくゼリーだったかな?
子供が食べて喉に詰まらせて窒息死したから、規制をかけるべきみたいな話になったりもした。

だけど、実際に喉に食べ物を詰まらせて死ぬ事故の要因ランキングの1位は、もう間違いなくモチだ。毎年、あれだけメディアが注意喚起しているにもかかわらず、モチを喉に詰まらせて老人が数人死ぬ報道がある。

ランキングによると、モチの次は、ご飯、パンと続くらしい。こんにゃくゼリーはランキングでいうと7位とか8位だとか。

だけど、老人がモチを食べるのを規制しようなんて誰も言い出さない。そして、老人たちは危険があることはわかっていても、当たり前のように正月にモチを食う。正論ぶちかますなら、当然モチの販売と飲食に規制をかけるべきだろうけど、誰もそんなことを言い出さないし、実際に言い出しても通らないだろう。

なぜって?それは日本人は正月にモチを食うっていう文化だからだと思う。何百年とそういう風習をやってきて、日本人の正月の生活に根付いているから、それを変えることには強い抵抗があるのだと思う。

こんにゃくゼリーを規制しようと言い出すのは、日本人の食生活にこんにゃくゼリーを食べる習慣が根付いていないから、規制しようなんて話になるわけだと思う。

つまり、モチは正月に食べる文化、こんにゃくゼリーは食べない文化ってことになる。


こういう悪いとわかっていても、やめられない風習とか考えとかって、世界中あらゆる国や、会社とかの組織とか、集団にあるのだと思う。民族性とか国民性とか、社風、校風なんて名前に変わっているけど、要は悪しき文化だよね。


アメリカが銃の乱射事件で死傷者がたくさんでても、銃規制をすることはできないのも、アメリカでは銃が日常的に生活の一部として存在して、それを切り離すことに非常に強い抵抗がある人たちが一定数いるからだと思う。つまり、銃が日常にある文化ということになる。


秋葉原の通り魔事件のあとナイフの所持が規制されたけど、大概の日本人はナイフを手元にもっていなくても、特に困らないからアッサリ規制法案が通ったのだと思う。あの事件ではナイフで刺す前に、大通りをトラックで突入して人をはねているけど、トラックを規制するって話には当然ならない。トラックは日本人の社会に強く根付いていて、規制なんて出来っこないからだ。


と、文化について、あーだこーだ説明したけど、これを雇用とか商習慣に当てはめてみるとどうだろう?

厳密な業務内容を確定しない、適当に雇用契約書を作る、下手すると契約書すら作らず口約束で働く場合もある、これって日本の労働における文化だよね。他国ではこんなの通用しない。

特に雇用という点に関しては、日本人はなあなあで済ませる文化があって、これはそう簡単に変えることができないように思える。

だけど、ブラック企業でいいようにこき使われて、しかもホワイトカラーエグゼンプションなんて制度で残業代もでなくなって、そうでなくても非正規雇用ばっかりなんて、悪い条件で追い詰められながら、一方で、雇用の条件をつめるところはなあなあなんてことをしていたら、労働者は本当に生かさず殺さずで奴隷として生きるしかない。

日本人は自分たちの雇用環境をお上まかせにする悪癖がある。これも悪い文化だと思う。でも、そのせいで、労働者の環境は悪くなる一方だ。

なあなあ雇用や労働行政はお上まかせというのは日本の悪しき文化で、それを変革していくのは容易ではないのは間違いないけど、1人1人が声をあげて、変革へのエネルギーとしていくべきだと思う。