神様は信じてるけど宗教は嫌ってだけなんだよね

http://toyokeizai.net/articles/-/22709

人間は目に見えないもの、予見できないもの、を理解して安全な環境を構築するために、いろいろな試行錯誤を太古の昔からやってきたわけじゃん?

最初は、それがまじないとか祭とかそういう原始宗教の方向だったのだけど、時代が進むにつれて知識の蓄積と論理の帰結から、科学というものが生まれて、それまで謎だったことが謎じゃなくなったわけなんだよね。

で、今、科学文明全盛の時代に私たちは生きているわけだけど、残念ながら未知の予見できないことが完全になくなったわけじゃない。生きていく上で感じる恐怖は依然として残っているし、あるいは形を変えて存在している。

で、そういう未知なるものに対する畏怖の感情のひとつとして、神様というものをなんとなく信じているって現象が起きると思う。神ではなく、人によってはそれが自然の驚異かもしれない。あるいは運命という言葉かもしれない。より具体的に幽霊とかUFOとか天使とか悪魔とか、かもしれない。ひょっとしたら、よりもっと身近に友達や家族の心の中にある本音の感情だったりするかもしれない。

まあ、名称は人によってそれぞれだろうし、捉え方もかなり違うだろうけど、生きていく上で感じる漠然とした対策しようのない恐怖というものは、人である限り無くせないんじゃないかと思う。

それはこの当の大学教授だって同じで、たとえ宗教を信じていないかったとしても、人間である以上、生命の危機に関係するかもしれない未知の現象に対する畏怖は、心のどこかにあるはずだと思う。

もし、その恐怖を完全に克服したのなら、それは人間じゃないどころか、生命ですらない、超越した別の存在なのではないかと思う。

だから、無宗教な人間や神を信じていないといっても、そういう畏怖してるものの総称として神様を信じる心はあるんだと思う。


だから、宗教を信じないと神様を信じないはイコールじゃない。


宗教には人間の手が入っている。本当かどうかわからない未知の領域を宗教は一定の形に規定している。神の形とか天国とか地獄とか。そしてそういう畏怖すべき存在に対して、人間がどう向き合えばよいかを、戒律とか呪文とか、真言とかお経とか、いろんなもので規定している。

人が何かを規定してルール作りを行うってことは、それが集団であることであり、それは組織であるといえる。

組織である以上、組織の保持、拡大が至上命題になるし、ヒエラルキーが生まれる。


そういうものを嫌悪し、否定し、できれば係わり合いになりたくないって感じる心もまた、人間である以上当然の感情として持っていると思う。自分が作ったわけじゃないルールに縛られるのは、それが何であれ、本質的には嫌な感覚をもつのが普通だからね。

日本人はいうに及ばず、最近じゃアメリカなんかでも、日曜日に教会に出向いて説教を受ける人は減ってるそうだ。そりゃそうだろう。日曜は朝寝坊したいし、身体の疲れを休めたい。朝っぱらから教会にいったところで、何がかわるわけでもなし、という感情は沸くに決まってる。


宗教を信じて、実際に行動するってことは、つまりその宗教がもつ戒律や組織のもつ内規に従うってことと同義だし、宗教にドップリ漬かれば漬かるほど、その内規もめんどくさい意味不明なものが増えていくのは、同じ組織構成である会社とか学校と同じだと思う。

だからたいていの日本人は、初詣に神社にいって2礼2拍手1礼でお参りしたり、葬式にいってお焼香したりする作法くらいはマナーとして付き合うけど、それ以上の宗教儀式には付き合わない。

最近の新興宗教の中には性質の悪いのも多いし、日本人が宗教にドップリ漬かって行動するということをネガティブな目線で見てるのは間違いないと思う。

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とまあ、ここまで書いたけど、要するに神様と宗教をイコールでみる視点そのものが×ってだけ。

わざとなら、単なる論理のすり替えを使ったペテン。
わざとじゃないなら、単なる考察不足。

いずれにせよ、大学教授がやることじゃないなーと思ったりする。

底意地が悪いというか、しかもそれを面白可笑しく嬉々として話してるし。

正直、単なるパワハラにしか見えないんだけど?

教授のストレス発散のために、下らない実験に付き合わされた学生が気の毒だわ。

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それから…。

不安をあおって、何かにすがらせたりするのって、別に宗教だけじゃないよなと思った。

人間社会で指導的立場の人間が実行する定石にひとつだよね。

ま、そんなことを考えた。